歌話会を始めたころ

坂 田   健

 6月末から7月始めにかけて私としては比較的長い旅行から帰ると郵便物がだいぶ溜まっていた。そのなかに桂さんからの「仙台歌話会創立時のことを書くように」との葉書があり驚きと戸惑いを感じた。 物忘れの度合いは近年とみに高まっている。その上創立当時と言えば、私が定年 退職をした20年も前のことである。不精な性格で日記はつけず、おぼろげな記 憶と僅かに残る資料とで期待に副えるようなものが書けるかどうか心許ないが原稿 締切も近いため、他の適当な人に代わってもらうこともならず御叱正を覚 悟で書くこととした。
 「北杜歌人」第1号に小林明氏の「仙台歌話会1年の歩み」が載っている。 それによると昭和56年3月、塩釜地区歌人協会主催の短歌大会に招かれた際、 小林氏が在仙歌人に、超結社的なグループを作りお互いの研鑽、向上を図 ろうではないか、と提案したことを発端として仙台歌話会の誕生となったことが記 されている。私は大会には出なかったがその前後に小林氏からその趣旨を聞き賛 意を伝えていた。小林氏は素早い行動力の持ち主で、間もなく設立発起人 会が開かれた。彼の記すところによると4月下旬に仙台市中央3丁目の「 いとを」で発起人会を開き、仙台歌話会が生まれることになったとある。 私もこの会に出席した筈であるが記憶は定かではない。発起人会では、会員相互の研鑽 のための例会を2ヶ月に1回開くこと。代表者・世話人などを置かず、2ヶ月毎に会員が交代して当番幹事となり、 その幹事に企画・運営をまかせる。会則などは作らず問題があればその都度 、会員が相談して決める。会員は仙台近郊在住の歌詠みで、数は運営上20 名前後がよかろう、などが決められた。特に私の頭の隅に残っているのは会員同士 の名前の呼び掛け方である。会員は仲間同士、みな平等だから「〇〇先生」 などとは呼ばず「〇〇さん」と呼び合うことにしようということになったこと。 会員の中には一国一城の主たる歌詠みもいたので、私のような未熟、軽輩 者には気が引けることであった。 その年の6月からは申し合わせ通り、 仙台市荒町福祉会館などで2ヶ月毎に歌会が開かれたが、参加者も回を重 ねる毎に多くなってきた。物覚えの悪い私は会員の顔と名前がなかなか覚 えられず困惑することが再三あった。昭和57年8月には会報「北杜歌人 」第1号が後藤左近氏らの編集で発行された。第2号61年2月、第3 号は平成元年10月と、だいぶ間隔があったが刊行は続けられていた。なお、 現在も使われている「北杜歌人」の表紙のデザインは故阿部巖男氏の手になるものである。 また第3号まではB5判であったが第4号以降はA5判になっている。
 意欲的に仙台歌話会創立に力を尽くした小林氏も後藤氏も世を去り、内田 重男・菊地新・菊地駒吉・阿部英子氏らも鬼籍に入られた。また退会した人 々も少なくない。会員は若々しく溌溂と輝いていた20年前は昨日のようでありながら、 その間の出来事は濃い霧のなかに次第に消え去ってしまった

 連歌と私たち 

原 田 夏 子

 仙台市内荒町市民センター(旧荒町福祉会館)で月例会をしていた頃、終って近くのガトーかんののお店にお茶を飲みに寄った。その時、多分大和克子さんが発案され、連歌を巻いてみようということになった。すぐに坂田健さんが発句を立て、 脇、第3と付けていったのが、昭和58年6月のこと、この会が百韻の連 歌を試みたはじまりである。その時居合わせた5人の句は、   
   梅雨の日や敷石濡るる並木道    坂田  健   
   緑はことになつかしき毒      大和 克子   
   真夏日の逢魔が時を木隠れて    原田 夏子   
   祭ばやしのをちこちにたつ     遠藤 幸子   
   目つむればもはや聞きえぬ君が声  桂  重俊
というもので、法式も何もなく、ただ前句に付けてゆくことを専らにしたため、 初折のはじめから「毒」だの「逢魔が時」などという強烈なイメージの語を使 ってしまっている。このお店では20句余り付け、その後内田重男さんと大和 類子さんが加わって、とにかく巻き上げたのが9月4日。この第1作は発句を立てた場所に因み、「五橋百韻」として恥かしながら「寿松」10号(昭和61・1)に載せて頂いた。「寿松」は市内の蕎麦店寿松庵に集まる蕎麦同好会の会誌である。
 これを契機にほぼ毎年一回は機会を設けて試みたのには連歌の付合を実習することで、何ほどか短歌制作のプラスになれば、という考え方があった。連句も五七五の長句と七七の短句を交互につけてゆく形としては変りないが、詩想上、連歌それも百韻にこだわった。 そしてただ連想ゲーム風に句を展開させるのではなく、連歌についての様々な知識や法式を学びながら、実習を行いたいと思うようになった。
 この時、最も良き入門手引書となったのが、山田孝雄著『連歌概説』(岩波書店1937・4刊)である。山田先生は幼時より父君の傍でこの道を見聞されていたといわれる。かつて東北帝国大学 において連歌史の講義をされ、またご自宅などで水曜日の夜ごとに、連歌の会をされたという。 その作品は『連歌青葉集』として昭和16年1月畝傍書房より刊行されている。 飯尾宗祗らの「水無瀬三吟百韻」は、連歌史上最高の模範と仰がれるが、 昭和10年前後、この道の権威の山田先生ご指導による仙台での連歌の会は、 当時類のないものであったろう。
 私たちは、法式や詠み方の心得に学びながらも、去嫌、差合の指摘注意は、宗匠や執筆なき変則のまま連 衆相互に行っている。用語は外国語はもとより、漢語、俗語の制限 をし、また、ある時は和語のみ使用ということにすると、1句の詠 み方はますますむつかしく頭をかかえることになるが、そういう制限が反って意欲や面白さにつながることにもなる。最近は百韻を一気に巻き上げるために、1泊の宿をとって行っている。連衆の数も14・5名と多く、経験の差もあるが、 一同気を揃えて楽しく実習をしている。巻き上げの所要時間は十時間ぐらいの見当である。
 序破急の呼吸で漸々変化展開の妙をあらわし、多種多様の趣きを一巻百韻に織り上げるのは、容易なことではない。すでに本号の作品を入れて、19作になるが、なお稽古中である。しかし、ともあれこの仙台歌話会の大切な勉強会として続いている。
 連歌の発表を「寿松」誌上でも行ったのは、編集に当っておられた故横山 彦平氏の好意的なご依頼に甘えてのことであった。記して感謝申しあげたい。

 <一首評>『杏の樹』大和類子歌集

 日の光青く透ると眸は遠く手許ひたすら捜しものする
 青く透るのは月光ではなく日の光であるという。この視点に作者の深 層心理を垣間見るような気もする。遠いどこかを見る、見ようとする眸、 心。それはもう未来をみつめる眸ではない。遠い来し方、それも生誕以前 まで逆のぼって。あるいはこの世にあらぬ界へのはるかな眼差し。青く透るという静謐な透明感あふれるあこがれは切ない。 一見日常の点描とも見える手許の捜しものという対比が妙で哀しい。そして捜 しものは日常のそれではなくもうとしても捕えられない生涯捜しつづける 何かであることをも暗示している。

丹治 久惠


〜前号掲載以後〜

歌話会の歩み
2000・
8・27 歌会
 
9・24
勉強会「北杜歌人」9号合評
 
10・22
歌会
 
11・26
歌会
 
12・6〜7
総会、懇親会 於秋保蘭亭
2001・
1・28
歌会
 
2・25
勉強会近・現代歌人の冬の歌の鑑賞と研究
 
3・25
歌会
 
4・22
勉強会前川佐美雄『植物祭』について  大和 克子
 
5・16〜17
勉強会連歌百韻気仙沼にて 翌日大島、煙雲館を訪ねる
 
6・24
歌会
 
7・22
歌会
 
8・26
勉強会 大和類子歌集『杏の樹』 合評

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