春の淡雪 有 路 八千代
醸されし歳月ながき瓶の中われの想ひも沈もりてゐむ 消ぬ思慕を抱きて歩むこれの身にふりかかるなり春の淡雪 あきらめの果ての姿か檻の中老いたる虎のまなこつぶれり
花曇り 伍 井 さ よ
亡き父母の見知らぬ町に住みつぎていかな絆を恩讐といふ な 木蓮の一木一木に目を遣りてわがいづくより鳥と化らむか ひたひたと陽波ただよふ縁側に寄るべもなきか膝小僧ふたつ
無言歌 伊 藤 洋 子
カーテンを払えばるるるる涕涙する如月の朝の玻璃の結露は 高々と笛吹きケトルが叫ぶ朝、お黙りとコンロの押しボタン押す おも 目を閉じて面埋めれば残生の「母の日」の花うたう無言歌
百寿の宴 遠 藤 幸 子
恙なくば百歳なりしわが父を偲びて子、孫三十人集ふ おし 父が捺印たる「拈華」の細き関防印中指の跡茶泥に残る 岩風呂に浮きし骨相みな似ると木洩れ陽ゆるる男湯弾む
十首 長 田 雅 道
雪降らむばかりに寒き午前九時用あればコートを着て出でて来ぬ 風に散る紅葉の中にわれは居てからくれなゐのいのちなりけり 沿ひ歩む垣根に朝顔の咲きゐたり一つの花の淡しうつくし
紫陽花 香 川 潤 子
壊れゆくいづくよりとは分かぬ身の裡なる疵はひとには見えぬ 「動悸せずや」と幾度も問う医師のまえ動悸してきつ吾が成れの果 横断の母子に窓より手を振れる運転手の夏帽白くかがやく
おしん 桂 重 俊
米あまる今の世の子の綾子には年季奉公実感し得しや こころ ことひとつ秘めてお加代の祝言の髪結い上げしおしんの心中 どん底に落ちたらも一度這い上がる 幾度それを重ね来たりし
空襲警報 菅 野 哲 子
五十八年前の惨禍よお下げ髪 防空壕よりよろよろと出づ 身ぐるみの焼失戦禍を原点に 殺戮いまだやまざる地球 再疎開したる山奥終戦を迎へし夜の明かりまぶしき
小さき旅をまた 小 松 久仁子
あした 朝きく鳩のつぶやき夕べまた聞けば遠野の森の語り部 甘酒の茶碗を包む掌の温さ夫彫りし佛像納めし寺に 外つ国のせいたか泡立草に染まれるや遺跡いで来し眼に黄蝶とぶ
嵯峨野にて 坂 田 健
不機嫌な改札機にすつと切符取られ飛鳥への旅すげなく終る 眼下に入鹿伐たれし宮の跡見放くる丘に風の過ぎゆく 静かなる嵯峨野に似合ふ人力車息乱すなく車夫気さくなり
風鶴 桜 井 千恵子
視力などもう要らぬ国はろばろと師の行き着きしまほろば思ふ 心臓の止まりて空ゆ落ちてくる鳥のはなしを聞きてかなしむ 広瀬通り青葉通りの夕明りいちやうもみぢはかがやきを閉づ
坂 柴 田 康 子
余命知る夫がつぶやく自が播きて花見る日なき草の芽吹くを 咲くための支えを夫のいつ組みし スヰートピー咲く夫亡き庭に この坂が好きと言ひけり空がゑむ坂登りゆく還らぬ夫と
卵・らん 丹 治 久 恵
いつよりの托卵なりしふところに卵をかかへて春を揺蕩ふ 卵孵すその日を密か謀りをり孵さぬことも方途のひとつ 細胞胚に生命を得たるニンゲンがひそかに増殖しつづけをらむ
五月 塔 原 武 夫
フルートの柔らなひびきに誘われ入りゆく界は水の彩り 金雀枝の花の明るさ夕闇を押し止めいて庭の辺は夏 風ぐるま回れよ五月てつせんの花のむらさき空へとかざす
梅雨の季 原 田 夏 子
ゆらく 憂ひごと飛ばしひと世を遊楽して踊り狂ふを浮世とはいふ 湿り壁こころにもてば色のなき茸生ひ出づる六月の空 遠くまで来てしまひたり同じ道まさか戻れと人は言はずよ
植物図鑑 本 木 定 子
さぎ草の花一せいに飛ぶ形誘う鳥あらば往なんと思う
紅紫檀を傘のかたちに切り揃える傘下にかばうもののあるやも 麦秋にあわせて枯るる草のあり成りて小さき雀のかたびら
山法師 八乙女 由 朗
夜目に見る山法師の花白く顕ち逝きたる友が居並びている 通学路を逸れて寺域に入り来たる女童一人尿して去る 渋柿に生まれてきみら渋抜かれ腑抜けとなりて箱に並べる
ほととぎすの来る頃 大 和 克 子
東北線上り電車が来るまでに一声まじめに鳴けほととぎす 兄といい弟とても血の乖離カインの末裔きよまりがたし あお 森口に紫陽花の青くらきかな逅うすべもなき人待つがごと
落花 大 和 類 子
卓上の白薔薇ほころぶ流亡も逃亡もなき夜のつまさき 喉灼くるコニャック充たし遠き日は滅びの美学称へたりにし 生茂る桜並木の下の道現身失ふわれはまみどり
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