はた 風の音
 
大 和 類 子

                     じんかん 

心にも有らざる言葉有ることば臆して小出しに人間さびし
    
身はここに在りといへども言葉はも彼岸にゆきてかへりきたらぬ
                   いま 
独り居の家内背後のうめく声過去世か現在かはた風の音
    


山崎雪子悼歌  
大 和 克 子

                    
飛火野の草中に坐りて風の他見えぬ二人となりてしばらく
                       
歳月とは友達とは何死なれし後はせんなきことごとおくれしわれら
                 
あんなにも若々しい肩のはずはない思いながらも追いかけてみる
    


栴檀林
 
八乙女 由 朗

                     
栴檀の木を見上げつつ椅子に凭る台風去りし青空の下
                         
紫のうすき花もつ栴檀は見上ぐる人に誇れるごとし
        
焼け残りの講堂に励みし仏教科隆明も祐敏ももうすでに亡し
    

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みどりの季
 
本 木 定 子

              
つながれし縄の長さに円形に草を食みたり山羊の一日
   
エプロンを手縫いしており雨の日の好きなわたしの遊び滿たして
    
拡げたる新聞をよぎる照りかげり歳月はかく移りてゆくか
    


山百合の思ひ出
 
原 田 夏 子

  
夜更くればいづれの神か訪ひ給ふ山百合の花揺れかすかなり
        しべ               なつい 
山百合の金色の蕊に触れしより落ちぬ夏衣をひそかに蔵しまふ
            し    た 
山百合は高き香りを身に染めて誰がうたたねの夢に入りしや
    

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病む日
 
塔 原 武 夫

 
夕焼けの雲の高みに舞う鳶のさびしさ想うあれはわが魂
    
遺書めきしことを書き終え宙みつむ生きるとの意思かすか残して
        まなこ 
麻酔より覚めし眼に兄のごと佐久間晟の顔が近づく
    


変心・偏心
 
丹 治 久 惠

           
血を頒けし幼きものらのいくたりのさざめく声に呼び戻さるる
                            くわうこん 
背なを推すたれの手やある抱きとむる誰の手やある ときは黄昏
        
言の葉は葉なりてかろし重おもとうけし彼の日のひとつ言の葉
    


黙して、十首
 
高 橋 一 子

     
見ず読まず時に黙して疲れゆくこの冬しかと眠るわれにて
    
歌にならむ僅かばかりで時に応ふ夕暮れのやうな二人の会語
        
何為すと炬燵おきおく夏来ればわれと覚しき人と会ふため
    

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ほたる
 
桜 井 千恵子

 
遺すべき骨さへあらぬほうたるが一滴一滴いのちをともす
     
生殺の権を持ちゐる己が手をおそれて草に戻すほうたる
        
水無月の夜をまたたくほうたるの母は草闇父は水闇
    


東病棟561号室
 
坂 田   健

 
薄れゆく意識留めんとする気力それさへ失せてその後を知らず
    
一つ部屋に見知らぬながらそれぞれに病に対ふ同志ぞ親し
        
いくばくの余生か知らず厳かにかく昇る陽に再び遭ひき
    


小犬のやうに
 
小 松 久仁子

    ひと 
隣席の女性の指輪が煌めき出す長きトンネルの中の出来ごと
          
曽て住みし港の町ははるがすみ向う島山みえねど見ゆる
        
丈伸びし紫蘭のつぼみ未だ固し如何なる道を子は選びゐむ
    

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片假名ことば
 
菅 野 哲 子

         
顔色もこゑのトーンもうかがへぬ指先かろき果ての会話は
         
しなやかな指先もはや持たざれば機器とは無縁となりたるなづき
                 
路地裏で石蹴りお手玉きそひたる母の呼ぶこゑ夕暮となる
    


ヴィヨンの妻
 
桂   重 俊

                  
涼風に復原竣りたる斜陽館この一隅は銀行なりし
                    
くさむらに消えてゆきたるお母さま清楚な和服お召しになられ
    
「男には不幸あるのみ」「いいぢゃない人非人でも生きてゐさへすれば」
    


夏の扇
 
香 川 潤 子

        きお 
檜葉垣のみどり勢いてめぐらせり吾を籠らすかたちになして
         
くもりの日は鬱を育てつ書くうたの思い暗みて湿度をも持つ
       
夏うぐいすも山に帰りし 早朝に聞きて目覚めし日々もありしに
    

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さくら荼毘  
遠 藤 幸 子

みのり
御法とふ蒼桜一木夜をひらく垂るるばかりに英霊乗せて
                   いくさ 
咲き鎮む兵舎跡地の丘の原球追ふ若きら戦闘を知らず
    
吾子が来る今日は会へると目覚めたり夜来の雨のあがりたる朝
    


帰心
 
伊 藤 洋 子

 

胸乳ひとつ抱き試歩なす病室の廊蛇行する 吾は生くべく

                     
診察の吾のカルテにわが短歌数首貼りあり医師さり気なく
              ファサード 
助手席は吾の揺藍 夫の駆る前面とおき紫紺の尾根へ
    


きさらぎの雪
 
伍 井 さ よ

        
降りつづく粉雪、糠雪、ふるさとに母は身を粉に夭く逝きにし
         
屈まりてねむる闇夜を屈葬の死者のくらやみ温かからむ
    うすらひ 
泥濘に薄氷はりし水たまり静かなる昼の空動きゆく
    


夏は来にけり
 
有 路 八千代

        
数珠もてば罪ゆるさるる思ひにて頭を垂れてわれは額づく
         
愛恋の言葉吐かざるおろかさを悔となしつつ亡き人想ふ
                   せな 
愛恋の想ひあらはに文楽のおさんは嘆く背ふるはせて
    


水無月の庭
 
穴 山 恭 子

びょう
未央柳黄に咲きこぼれ水無月の鬱をはらえと風のそよぎぬ
                     しゃが 
とりどりの傘重なりぬ六月の通学路に咲く射干のむらさき
                                 
藍染の麻ののれんに掛けかえて夏の日を待つ梅雨晴の朝
    

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