甲 斐 路 穴 山 恭 子
人住まぬ生家の前を通り過ぐ幻の人らの声きくごとし 嫁ぎゆきし甲斐の集落七十戸よろず屋もあり紺こう屋もありき ふる里を離れて久し顔知らぬ舅なれども五十年忌に
老いてたまるか 有 路 八千代
八十の胸を張りつつ大股に歩いてもみる老いてたまるか 子を育て子を手放して朝あさを小鳥に餌をまきてゐるなり をさな 絶えまなく降りつもりたる雪晴れて露地に幼のかん高き声
夕 海 伍 井 さ よ
死し去りし涯とめどなき夕海を刻々と噛む白き波の歯 吾亦紅点々として草に滲む血飛沫に誰かここに絶えしか かうべ 目ぐすりをさして目を閉づ秋天に首ささげて在りしつかの間
亡き師の跡を尋ねて 遠 藤 幸 子
ふんが 銃掲げ汾河を徒歩に渡りしと還りきまさぬ師の軍事便 黄土高原のいづくに斃れし師なりしや飛機の内より数珠握りしむ(敦煌へ) 唐槐匂ふ寺の境内寂けくて黄衣の僧ひとり教典ひらく(法華寺)
卑 弥 呼 桂 重 俊
卑弥呼とは誰にやはあるアマテラス ヤマトトヒモモソヒメ オキナガタ ラシヒメ? 史学者の黙殺なせる日本史像徐々に国民に浸透しゆくや あらがいしみかどのうからよみつげばひとつちすじというはなにぞも
そよ風の庭 菅 野 哲 子
かりんの実葉陰つぶらとなりてゆく雨季さはやかにありたし明日も 青蔦の梅雨に光ればとなり家の無人の舘しばし明るむ 老ふたり施設に移り季うつりむらさき露草更地に生ひぬ
原爆忌に想ふ 小 松 久仁子
丘に建立の仏舎利塔の反射光わが家ぬちに届くときありき ひ 炎ひに包まれ手を伸ぶる人を見すごしし己れを描きし人の心や 積み上げし死体を焼きし公園とふ無心に遊ぶ子供等の声
履 歴 表 坂 田 健
光さへ届かぬ深き海底の兵のかばねに墓標立つなし 「横一補水三三一〇」所持品の全てに記すわが認識番号 万人が万の恨みを抱き老ゆ六十年目の八月十五日
三 陸 線 桜 井 千恵子
トンネルといふ無骨者あらはれてわれの車窓を幾度も閉ざす 眠りても覚めても揺るるススキの穂三陸線の車窓暮れつつ 三陸線各駅停車の旅さびし野辺の駅舎や海辺の駅舎
木 立 高 橋 一 子
〈遅咲きの花〉とし公演「放浪記」八十四年の四十四年 いま ササッと購ひて身軽くゐよとは若き日の吾よりも老いたる現在を言ふなり 金網のフェンス長く続きたり人待つとなき自転車ありき
あかねさす 丹 治 久 惠
遠きなにかが聴こえてきさうな立秋の耳は未明を戦ぎやまざり あたた 温めゐしものもどこかに置き忘れ熾も火種ももう見当たらぬ 待つひとをはるかに忘れ果ててけり待たるる人でなくなりしわれ
青 い 音 塔 原 武 夫
照り映ゆる光をつつみけやき樹はわれにやさしき翳りを生めり 兵たりし日の惨劇を語るなく友は淋しきまなこをば逸らす 太りゆくぶどうの碧き房がもつ力をみつむ畏れつつ見る
壽岳章子さんを悼む 原 田 夏 子
曇天のかなたより来し訃報なれ沙羅の花ばな青ざめて落つ はかな 著述あまた遺れど儚うつし身は京のみやこの巷に消えて 男ことば女ことばの保守性を衝きし眸のひかりはいまも
日日の歌 本 木 定 子
春愁とはどんな愁いか勘の鈍りそれがさびしい春の朝です 風邪薬に砂糖をまぜし母の処方幼きころを風花連れ来 若き頃勤めし町を歩みおり淡き思い出の深くなりつつ
かりんの実 大 和 類 子
暑き午後の抜けがら二つありいのち存ふかなしみもある かこぜ 単調な盆踊りうたいつやらにわが掌はつなぐ過去世の誰か 自死したる隣家のせいねん年を経てこよひ夜霧にその面差しが